フランス ル・コルビュジエと現代建築の旅

G-4.コルビュジエ・アトリエ

旅も八日目、いよいよ最終日となりました。午前中は土曜日しか公開されてなかったコルビュジエのアトリエと近くの個人邸の見学、午後は建築・文化財博物館と傍のオーギュスト・ペレのアパート、そして最後に今回の旅を思い立たせてくれたフランク・ゲリーのルイヴィトン財団美術館を訪問します。パリ16区内と隣接するブローニュービヤンクール(Boulogne-Billancourt)市内での行動となります。そして夜CDG空港より帰国の途につきます。

コルビュジエのアトリエは10時から見学可能なので、その前の時間で近くにあるクック邸などを外から見学する事にしました。その為(M10Boulogne Jaeau-Jaurès(ブローニュ・ジーン・ジョレス)駅で降ります。駅からクック邸に向う途中、この周辺は昔から高級住宅街として有名なエリアだったからでしょう、趣のある建物がところどころ見受けられます。その中には一見コルビジェが作りそうな外観の近代建築も有りましたがよく見るとやっぱり違いますね。それにしても屋上庭園がちゃんとあるのが面白いところです

 

 

ブルゴーニュ‐ビヤンクール市内の1930年頃の建築を紹介した”Boulogne-Billancourt le parcours des années 30”という参考になる資料があります。同市ツーリストオフィスで入手かHPからパンフレット地図をダウンロードできます。時間に余裕があればこの地図を片手に散策れば興味がわく近代建築を効率良く見れそうです。コルビュジエのアトリエがあるニュゼッセ・エ・コリ通り周辺でも同時代の他の建築が紹介されています

クック邸前にある市の案内板

クック邸(Villa Cook1926

駅から迂回してダンフェール・ロシュロ通り(Rue Denfert Rochereau)を南下すると右手にクック邸が見えてきました。そこは住宅が連なった通りですが、やはりクック邸はそのファサードの構成が美しく周辺の建物との違いが分かります。白いキュービックのイメージそのものです。

今も人がお住いで外観を道路からフェンス越しに見学です。クック邸はコルビュジエが五原則を発表した後の初めての建物でそれが忠実に再現されていると言われています。連続窓をはじめ屋上庭園、またフェンス越しに背伸びすると一階のピロティの一部が見えます。変化のある屋上庭園からはいろんなシーンが想像され、きっとここに住めば楽しく快適な時間がすごせるだろうなと思いました。

ところでクック邸の両隣の建築も注目されます。

左隣は1926年竣工のマレ・ステバンス(Robert Mallet-Stevans)設計のコリント邸(Villa Collint)です。マレ・ステバンス氏はコルビジェやジャン・プルーヴェなどが参加していた現代芸術家協会(UAM)の会長であり、コルビュジエより一歳上のモダニズム建築家です。

一方右隣は1929年竣工のレナウド・フィッシャー(Louis Raymond Fischer)設計のドビン邸(Villa Dubin)です。フィッシャーはコルビジェより12歳年下でコルビュジエを師匠としていた建築家です。確かに並んだ建物は似ています。一方、フィッシャーはコルビュジエを知る前にフラン・ロイド・ライトとも接点があり、その影響もどこか受けている様です。二大巨匠の影響を受けているフイッシャーの建築については、何時か触れたいと思います。

隣の同期の建築には負けたくないという思いで作ったであろうコルビュジエのクック邸、数年後隣にその師匠に近づきたいと思いながら作ったであろうフィッシャーの建築。クック邸は面白いところに建っています。

中央のクック邸の左隣がマレ・スティヴァンス設計のコリント邸           右隣がレイモンド・フィッシャー設計のドビン邸

レイモンド・フィッシャーのドビン邸

テルニジアン邸(Maison Ternisien) 1927年竣工

その先、三叉路の角に鋭角にとがったテルニジアン邸(Villa Ternisien)が直ぐに目に止まります。

非常に特徴的な建物ですが、コルビュジエによる当初の建築は屋上庭園を備えた二階建でした。その上にクライアントの意向で1930年ジョージス・ヘンリ・ピングソンによる設計でアパートして増築されました。その為でしょう、やはり建物全体のバランスを欠いている様にも見えました。

 

また傍にはリプシッツ・ミスチャニノフ邸(Villas Lipchitz Miestchaninoff)1926年竣工が有りますが、その姿は私道が閉ざされていて近付く事が出来ず確認することが出来ませんでした。

ニュンジェセ・エ・コリ通りのアパート(Immeuble Nungesser et Coli)  1934年

さて、引き続きこの住宅街を10分程度歩いてコルビュジエのアトリエがあるニュンジェセ・エ・コリ通り(Rue Nungesser et Coli)にやってき来ました。すると道路の向か側半分がテープで封鎖されて自動小銃を持った兵士がパトロールしています。大変な所に来たと思いましたが、直ぐに理由が分かりました。今夕、そばのパルク・デ・プランス(Le Parc des Princes)でユーロ2016の試合が予定されている為です。

振り返れば今回の旅は初日のマルセイユからサンティエンヌ(フェルミニ)、そして最終日のパリまで”ユーロ2016”の試合に絡みながらの旅でした。

このコルビュジエのアトリエがあるアパートは表のニュンジェセ・エ・コリ通り(Rue Nungesser et Coli)と裏のトゥレル通り(Rue de la Tourelle)は同じようなファサードです。そして図面によると各階の住居も両側に面しています。ユニテ・ダビダシオンに通じるところありますね。トゥレル通り側には地下駐車場らしき入口の扉が見えます。当時としては進んでいた設備ではないでしょうか。

ニュンゼッセ・エ・コリ通り側(左)とトゥレル通り側(右)の二つのファサード

コルビュジエのアパートのニュンジェセ・エ・コリ通り側真向かいは、サッカースタジアムに隣接してジーン・ブイン・スタジアム(Stade Jean Bouin)  と言う大きなラグビー 場です。2013年ルディ・リコッティ (Rudy Ricciotti)がマルセイユの地中海博物館と同じような網目状の壁でスタジアムを覆った為、一面あの網目のような壁となっています。

コルビュジエの助手であったロジェ・オジャム氏(Roger Aujame)のインタビューでコルビュジエからアトリエにラグビーの試合を見に来ないか言われ行ったら仕事の話無しでずっとアトリエから試合を見ていたそうです。後ほどアトリエから実際に外を見てみましたが、スタジアム全体は見えますが、このリコッティの屋根が邪魔してもはや肝心のグランドは良く見えませんでした。もしコルビュジエが生きていたら、リコッティもコルビュジエにこのスタジアムデザインのお伺いを立てる事が必要だったでしょう!?

ジーン・ブイン・スタジアム (コルビュジエのアトリエからの眺め)

さていよいよ訪問です。入り口のインターホンのコルビュジエ財団と書かれているボタンを、押して見学したいと伝えると、「エレベェータで6階に上がって階段を上がってください。」と返事が有り解錠されます。エレベーター前の小ホールにはコルビュジエの資料がたくさん張られたパネルが有りますが先を急ぎます。

コルビュジエ財団の呼び出しボタン(左列上)

一階ロビー

エレベーターの最上階6Fで降りると全面ガラス窓に面した細い通路があり回り込んだ階段を上がっていくと黒いドアが見えてきました。まるで隠れ家を探してやって来た感じです。

呼び鈴を押すと直ぐにドアが開き中から昨日ロッシュ邸でお会いしたコルビュジエ財団のSさんがニコニコした顔で、「来ましたね!」と出迎えです。こっちもすっかり打ち解けてしまってとっさに「今日はコルビュジエ氏は在宅ですか?」と言い返そうと思いましたが、そんな馬鹿な冗談を言うのは止めて、直ぐに中に入りました。

進むと目の前にアトリエの壁が見えてきました。通りに面した窓にはカーテンが引かれていますが、ガーゼルが置かれている壁側の天井は一段と高くなっておりその天窓からは光が帯になって降りてきています。内庭側もガラス窓で、写真や映像で想像していたアトリエのイメージより明るい事が分かりました。

アトリエの後ろにはコルビュジエの書斎があります。窓に作り付けのデスクの後ろには大きな収納棚。横のレンガの壁と木材に囲まれ落ち着く空間です。アトリエ内は随所にコルビュジエが住んでいた頃の部屋の写真が置いてあり、参考になります。誰もが一度を座ってみたいコルビュジエの椅子が目の前にあります

アトリエからリビングの方を見ると窓の外の景色まで一直線です。手前にはよく紹介される大きな回転ドアがあります。そしてその先にはコルビュジエらがデザインした椅子が何気なく置いてあります。左には屋上に出る螺旋階段が見えます。

トゥレル通り側のリビングに来ました、ベランダの外には緑に囲まれた近隣の住宅街が広がっています。ここからクック邸も見える距離なのですが手前のアパートメントに遮られている様です。

右にある寝室には高くしたベットが置かれていました。私はこれを見てコルビュジエは本当にピロティが好きなんだなと思いましたが、後日のシンポジュウムで、見識者よりコルビュジエは起きて直ぐに外の景色が見えるようベットを高くしていたとの説明がありました。何を見ようとしたのでしょうか?思い出すに、寝室のベランダから遠く見えていたのは、ヴァンサン計画などコルビュジエが描いていたパリの都市計画のエリアでした。

ベットの横には、ユニテの住宅で見覚えのあるカプセル型のシャワー室が有りました。ユニテの子供用のカプセルよりはずっと大きいですが、合理的ですね。

その奥には配管一つ一つとってもデザイン的に興味を惹かれる洗面台が有りました。これらもベリアンの仕事でしょうか。

アパートの各階両サイドには採光を考えてでしょう、空間が設けられています。

ニュゼッセ・エ・コリ通りに向かって右側にはM字型の広めの空間があります。下階の住宅では広い窓にプリーズソレイユの様なバーが入っています。面白いのはコルビュジエのアトリエの階です。屋上からのタラップに続いて窓下横への足場が用意されています。これははめ殺しの窓の外をメンテする為の設備だそうです。でもこれで作業するのはちょっと怖いですね。

向って左側の空間には何か重い物を各階上げ下げできる様チェーンリフトが設置されていました。

この様なメカニカルな仕掛けはコルビュジエらしいと思いました。或いは技術系の従弟のピエール・ジャンヌレの仕事でしょうか。

螺旋階段を上がるとそこは小さなガラスに囲まれた部屋です。外に出てトゥレル通り側に進むと、パリ北西部の街並みが遠くまで見えています。80年前と変わらないような緑豊かなパリの風景です。ただ一つブローニュの森の先、東の方、新凱旋門があるラ・デファンス地区の高層ビル群がハッキリ見えます。図らずしもその位置はコルビュジエがパリ・ヴォアサン計画で描いた地図の西のライン上にあります。そこは車と歩行者を分離する人工地盤が広がり、最近の計画では高層住宅を増やし職住近接の環境を実現しつつあそうで、そのコンセプトはコルビュジエの”輝く都市”そのものですね。

 

土曜日だけの公開の為か、見学者が少し増えてきました。それも日本の若い人が。みんな熱心に見学されています。

50年以上昔の事ですが巨匠がどんな暮らしをしていたか直に見る事ができる事は、建築やデザインを見る事とは違う次元で、若い人にとってこれからやりたい事、進む方向への大いなるヒントになるのではないでしょうか。とりあえず明日からベットは少し高くして寝ますか、、!?

それにしても下の通りが騒がしいこんな日もスケジュール通り公開してくださり、機会が限られる旅行者にはありがたい限りでした。

尚、昨年9月より2018年の5月までは修復工事で閉館になっています。

(追記)2018年6月5日再オープンしました。今度はガイドツアーのみの見学になった様ですが、日曜を除いて毎日オープンの様です。日本語のツアーも含めて詳しくはコルビュジエ財団のHPをご確認ください。

建築文化財博物館 (Cité l’architecture et du patrimoine

さて、残りの時間で近くのパリ16区で気になっていた所を訪問します。

シャイヨ宮内にある建築・文化財博物館を見学の為(M)Trocadero(トロカデロ駅)に向かいます。目的はそこに展示されているマルセイユのユニテ・ダビダシオンの実物大再現ユニットを見ることです。博物館は展示スペースを拡大して2007年リニューアルオープン。フランス国内の歴史的建造物の実物大複製(ムラージュ)を数多く展示してあります。そばのトロピカル広場はエッフェル塔を見る観光客で大変混雑していましたが、博物館内は人もまばらで別世界です。じっくり見れば半日は過ごせるでしょうが、今回は時間がないので見学はユニテ関係だけになりました。

展示物はマルセイユのユニテ・ダビタシオンの居住ユニット一つが周りの構造物も含め丸ごと再現されているのでとても大きなものです。フランス近代建築史において重要視されている証でしょうか。コルビュジエへの後年のインタビューで「あなたにとって一番大事な建築は何ですか?」の質問に”ユニテ・ダビダシオンだ”と答えていますね。

内部は細部まで良く再現されています。一週間前に実物を見学してきたばかりですから、、改めていろいろ工夫されていたことが分かりました。、そばにはユニテの模型も展示されています。ここでは建設途中の状態を示したものもいくつかあり、その点が興味深いものでした。

 フランクリン街のアパートメント 

(Rue Franklin Apartment)  1903

シャイヨ宮から数百m離れた通りに“コンクリートの父”と言われるオーギュスト・ペレ(Auguste Perret)による最初のコンクリートによるアパートメントがありそこまで足を伸ばしました。1903年竣工の建物は装飾パネルで飾られている事もありとても綺麗です。

1908年ペレの事務所に入った事がコンクリートによるコルビュジエの建築を決定付けたと言われます。周囲の建物と明らかに違いが分かります。今この建物を見れば多くの人がコンクリートの将来性を理解したのではないかと思えますが、当時その可能性に気づくかどうかは、それで自分にやるべき事への強い意志が有ったかどうかではないでしょうか。

定礎?「1903年ペレ」の表記